2015年12月06日
徒然交心sk0502『 縄文の血に和まんや去年今年 』
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縄文の血に和まんや去年今年
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ぼくは縄文人とその文化を、ぼくの心と生き方の道標としています。
縄文人は自然の豊かな恵みに生と暮らしの知恵をもらって生きていたようです。自然との共生が共同体の原点にあったようです。
そのころから倭人と呼んでいたかどうかは知りませんが、卑弥呼の時代の倭人は、中国人も尊敬する礼儀作法の優れた文化を持つ国だという評価をもらっています。
自立・連帯・共生の支え合い、補い合う豊かで平和な共同体があったと思います。
倭人の「倭」は「人」と「委」でできています。
「委」は稲魂の象徴の「禾」と「女」でできています。
<禾(いね)を頭に被って舞う女の姿である。田植えのとき、豊かに稔ることを願って田の舞いをするが、そのとき男女二人で舞う。男の舞う姿を示す字は年で、古くは禾の下に人をかいた。男は立って舞うが、女は低い姿勢でしなやかに舞うので、委には「ひくい、したがう、まかす」などの意味がある。また「しなやか」なことから、「よわよわしい、やつれる」の意味になる。> ・・・白川静『常用字解』p10
「倭人」は背の低い人間として差別された意味で言われたとされているようですけれど、ぼくは「和」の心を持った寛容の人を意味しているように思います。「倭人」は「イジン」ではなく「ワジン」=和人なんです。
縄文人の心と文化を表す呼び方に思えます。
後に、「大いなる和」の人の意味で、「倭」は「大和」となりました。
弥生時代になって稲作が発達してクニができはじめると、人口が増加して、食糧が不足しはじめますので、隣のクニと争って、領土を分捕っていく戦争をはじめるようになるんです。小国分立の部族抗争社会を国家として統一したのが天武天皇の飛鳥時代だったのです。はじめて「天皇」が即位して、国も「日本」と呼ばれました。
天武天皇以降、天皇は現人神となり絶対的権力を持ち、更に明治憲法で、国の元首であり、統帥権まで掌握する権力者になりました。
元来、天皇家の大本は氏族の長だったろうし、祭祀の長だったのでしょう。
邪馬台国では、卑弥呼が祭祀を司り、弟王が政治を司りました。
祭祀の長としての責務が天皇家の伝統でしょう。
今世では、天皇は元首ではなく、祭祀の文化と伝統を守る日本国民の象徴です。
縄文時代の自然神が森にも海にも路傍にも、家の隅々まで、至る所に、自然を見守り、人の暮らしも見守ってくれています。神々も共生して大いなる和の心を導いてくれています。
豊穣の稲作を願って自然の恵みを祝祭する営みと支え合い、補い合う大いなる和の心がが、日本の文化の原点であり、伝統であろうと思います。
古来、大いなる和の国の民は、争いを好まず、補い合い、支え合って、礼節を大切にする人々でした。その大いなる和の国の民の文化と伝統は、民の間では、脈々と流れ、継承されていると信じています。
縄文の血に和まんや去年今年 仁
戦知らずの豊穣の民
鄙隠り老仁の思いを呟かさせてもらいました。
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